昭和生まれが忘れられない【邦楽】- その1『帰れない二人』

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昭和生が忘れられない邦楽ベスト10 帰れない二人

今回は忘れられない「邦楽」の第1回目として『帰れない二人』を取り上げます。
1973年リリースの井上陽水『氷の世界』に収録されており、叙情的な歌詞と切ないメロディーが心に響く名曲です。

目 次

偶然の出会いから生まれた奇跡の曲

この曲は、井上陽水と忌野清志郎という二人の天才アーティストによる、奇跡の共作として語り継がれています。

二人の出会いと共作のきっかけ

井上陽水と忌野清志郎は、まだ駆け出しの頃に渋谷のライブ喫茶で出会ったそうで、お互いに暇だったことから、陽水が「一緒に曲でも作らない?」と声をかけたことが、共作の始まりとされています。

楽曲制作時のユニークな状況

清志郎が、断片的なメロディーと歌詞を陽水に持っていったのがこの曲の原型でした。
後に清志郎は、この曲が「奇跡みたいなもんだよ」と語っていて、陽水がその「壊れかけのフレーズ」を美しくまとめ上げてくれたと話しています。 

また、陽水がカレーライスを清志郎に振る舞ったエピソードも有名です。
ファミレスやスターバックスもない時代に、二人で寂しくカレーを食べながら曲作りをしていたという、昭和の雰囲気を伝える話として語られています。

「星は帰ろうとしてる」の誕生

曲のサビ前にある「もう星は帰ろうとしてる」という象徴的なフレーズには、面白い説があります。
レコーディングを待っていた編曲家の星勝が、なかなか曲が完成しないことに業を煮やし、「もう帰ろうかな」と言ったことがヒントになったというものです。
この真偽は定かではありませんが、この曲のユニークな背景を物語るエピソードとして知られています。

ちなみに、星勝という人は、「たどりついたらいつも雨ふり」などのヒット曲で知られる『モップス』のギタリストだった人ですね。陽水の楽曲には欠かせない名アレンジャーです。

以上のエピソードは、過去のインタビュー記事やWeb上の記事から拾ってきたものばかりですが、ここからは、私の記憶の中の井上陽水と忌野清志郎の思い出です。

田舎町の体育館で見た陽水のバスケットボール

中学生の頃だったと思います。
故郷である秋田のひなびた田舎町で、井上陽水のコンサートが行われたのですが、なんとそこは普通の学校の体育館でした。すでに名前が知れたフォークシンガーだったと思うのですが、そんな会場でもOKだったことに驚きます。

自由席のため、開場するまでは体育館の周囲に行列ができていました。
その列に並んでいたところ、体育館の中から何かしらボール遊びをする音が聞こえてきたんです。古い建物ゆえ板壁に隙間も多く、そこから中をのぞくことができました。

すると、陽水がスタッフと一緒にバスケットボールをしているではありませんか。それも、すごくうまい!
軽く目眩がしました。
あの「傘がない」とはかけ離れた健康的なイメージに、田舎の中学生はショックを覚えたものです。

そういえば、リハーサルはどうするの?
おそらく、ド田舎の会場なのでぶっつけ本番だったのかもしれません。

歌ですか? まだ『帰れない二人』が発表される前でしたけれど、それはもう、とんでもなく良かったですよ。

実はそのコンサート、RCサクセションが前座だったんです!
つまり、いま思えば、フォーク時代の忌野清志郎もそこで観たということです。
でも、本人のことはまだ知らなかったし、暗いイメージで歌の印象もあまり残っていません。

やはり、ロックの人だったんでしょうね。亡くなってしまった今でも、大好きなシンガーのひとりです。

純粋に「帰れない二人」は、美しいメロディーと琴線に触れる言葉に満ちあふれた歌詞が心を揺さぶります。
当時の井上陽水と忌野清志郎という二人への思い出も含め、それぞれの才能が偶然に交わり、生み出された奇跡の結晶として、私にとっては今もなお、忘れられない曲なのです。

日本初のミリオン・セラー、井上陽水のサード・アルバム『氷の世界』の発売40周年(2014年時)記念盤。

9.11の『帰れない二人』物語(実話)

2001年の9月11日、夫婦でアメリカに滞在していました。
遅い夏期休暇を取り、カリフォルニア州サンノゼの友人宅を訪れていたんです。

前日まで、クパティーノのApple本社(まだ新社屋に移転前)へ案内してもらったり、ヨセミテでキャンプをしながらトレッキングを行うなど、天国のような休暇を満喫していました。
そして、その日(9月11日)を最後に、ロスに移動するという予定でした。

忘れられない、未曾有の出来事

午前9時前後だったでしょうか。
寝室でうとうとしていると、いきなり友人が「大変なことが起こった!」と青ざめた声で伝えに来たんです。

リビングに降りていってみると、テレビからニューヨークWTC(ワールドトレードセンター)に航空機が突入する瞬間が繰り返し流れていました。

英語が堪能ではなかった(今でもですが)ので、一瞬ラジオの宇宙戦争のようなブラックジョークなのかもしれないとも思いましたが、キャスターの緊迫感は尋常ではなく伝わってきました。
メディアも情報が錯綜して状況がうまく把握できていないようでした。

さらに大変な問題が起こっていました。
友人の妹がWTCの向かいのビルにある会社に勤めており、携帯でも安否の連絡がとれなくなっているらしいのです。
そのビルも破壊されているようで、友人は半ばパニックになっていました。

遥か遠くに感じた日本

全米の空港はすべてストップです。
早い段階で、アルカイダのウサマ・ビン・ラディンが首謀したテロであるらしいことが報道され、しばらくは飛行機が飛ばない、解除の期限もまったく不明であることが知らされました。

その時は、日本に帰れない、おそらく何ヶ月、いや何年も、という不安がよぎったものです。イスラム諸国との戦争が始まるという報道も、アメリカでは少なからずあったからです。どうしようもないので、しばらくは友人宅に身を寄せることにしました。

夕方になって、やっと友人の妹に連絡がつき、安否が確認できたことは不幸中の幸いだったといえます。

翌日からはテレビ漬け。おかげで少しは英語がわかるようになった気がしました。

我々はこれからどうなるのか? いつまで居候にならなければならないのか? というのが次の問題でした。長期に及ぶようなら、バイトをする必要があるかもしれないとも思ったものです。

その夜、カルフォルニアの星の瞬く空を見上げながら、『帰れない二人』を思い浮かべていました。

今も思い出す、あの緊迫感

有事にはならないらしいとわかった一週間後、空港閉鎖が解除となりました。
運良くサンノゼ空港から帰国の途につくことが出来たのですが、その便は同時多発テロすべての犠牲となった「アメリカン航空」。そして、これ以上ないほどの厳重なチェック。
搭乗カウンターに並ぶ人々の顔はこわばっていました。
帰国の旅を楽しむ余裕がなかったことは、いうまでもありません。

毎年この日が来ると、心細い二人の面倒を見てくれた友人家族に感謝するとともに、亡くなった方々への追悼が欠かせません。

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